序章/台湾原住民についての大まかな歴史と現状

文:石原 嘉人

(特記以外の写真も著者撮影)

 

 

はじめに

 

「島嶼(とうしょ)音楽祭」をご存知ですか。

台湾の東海岸(花蓮と台東)と沖縄各地を結ぶ文化交流イベントのことです。

このイベントは、ある年には台湾東海岸の原住民族アーティストたちが沖縄を訪れ、翌年には沖縄のアーティストたちが台湾東海岸を訪れるという形で毎年開催されています。

三年前、台湾の原住民族アーティストたちが沖縄本島の読谷村でライブを行った時のこと。

当時、台湾の高雄に住んでいた僕は、「台湾原住民の文化を知る良い機会だから、ぜひ行くべし」と、沖縄の知人たちにメールを送って参加を呼びかけました。

数日後、会場に足を運んだMさんから、こんな反応が帰ってきました。

「ほんとうに素敵なライブでした。ところで、一つ疑問なのですが、原住民なのにギターを弾いていたのはなぜでしょうか? 彼は、普段はどんな生活をしているのでしょうか?」

 

島嶼音楽祭@読谷村2015(Mさん撮影)
島嶼音楽祭@読谷村2015(Mさん撮影)

 

Mさんは中国語の原住民という言葉のニュアンスについての予備知識がまったくなかったために、「原住民というからには原始的な生活をしているに違いない」と思い込んでいたのでしょう。

中国語の原住民は、元々その土地に住んでいる人々のことであり、中国から台湾への移民に対置して、「我々こそが原來の住民という主張を込めた言葉です。

そこには日本語の原住民が示唆する「近代化されず、今も原始的な暮らしをしている人々」という意味はありません。

かつて「蕃人(ばんじん)」「高砂族(たかさごぞく)」「山地同胞」等の呼称を強いられてきた人々が、自らの認同(アイデンティティ)を示す語として選んだのが原住民であり、台湾の政府も公式にこの言葉を使用しているわけです。

日本語では、そのような人々を「先住民」と表記することが多いのですが、中国語で先住民》と書くと、「かつてそこに住み、今では滅びた人々」という意味になってしまいます。

そのため、原文通り「原住民」と表記することが多いのですが、そのせいで誤解を招いてしまうことが、しばしば起こっているようです。

 

台湾について語ろうとすると、いつもこんなもどかしさに直面します。

特に、原住民族に関する事情や日本統治時代について語ろうとすると、入り組んだ経緯を説明しているうちに話が脇道に逸れてしまって収拾がつかなくなり、伝えたいことを語る前に諦めてしまうことも珍しくありません。

それでも、少しずつですが台湾と沖縄の文化交流は深まっています。

島嶼音楽祭に参加したアーティストたちはその後も沖縄で何度も公演を果たしているし、沖縄から台湾へツアーに行くアーティストたちも、年々増え続けています。

そんな身近な存在になりつつある台湾の原住民族について、僕自身の見聞や体験をもとに綴ってみたいというのが、このエッセイシリーズ『美麗島(フォルモサ)の人々』のテーマです。

今回はその「序章」として、まずは台湾原住民の歴史と現状を大まかにご紹介したいと思います。

 

アミ族の民族衣装。2018年5月Asian Roots Trip@普天間山神宮寺(沖縄県宜野湾市)にて
アミ族の民族衣装。2018年5月Asian Roots Trip@普天間山神宮寺(沖縄県宜野湾市)にて

序章/台湾原住民についての大まかな歴史と現状

1:美麗島(フォルモサ)の時代

 

台湾は南北アメリカと同じ頃にヨーロッパ人に発見されるという形で世界史に姿を現しました。

東アジアの要所に位置しているのに、なぜか周辺の日本・中国・フィリピンなどとの関わりが薄く、孤立した島に「原住民」たちが素朴な暮らしを営んでいました。

江戸時代の初期まで、周辺国家に干渉されない長閑な時代が続いていたのです。

最初に台湾を発見した欧州勢力はポルトガルで、彼らは緑豊かなこの島を “イーリャ・フォルモサ(美麗島)”と名付けました。

それで、台湾は長らくこの名称で世界地図に記されることになりました。

しかし、ポルトガルはマラリアが猖獗(しょうけつ)するこの島には興味を示しませんでした。

きっと彼らは豊饒の大地・ブラジルへの入植で忙しかったのでしょう。

 

次にやってきたのはオランダでした。

当時、弱小の新興国だったオランダは、ヨーロッパから遠く離れたバタビア(現在のジャカルタ)に植民地を確保し、そこから長崎へと結ぶ貿易ルートを作ろうとしていたのです。

オランダは、まず台湾と大陸の間にある澎湖島を占拠したのですが、そのころ中国の主権者だった明王朝から

「その島は我が国の領土なので出ていきなさい。その向こうの島は無主の地なので、好きにしてよろしい」

と言われて、しぶしぶ台湾に移ったそうです。

そして、1624年に今の台南に砦を築いて、原住民から買い付けた鹿皮を長崎に輸出するようになりました。

 

同じ頃、スペインもフィリピンから北上して台湾島東北部の沿岸を占拠し、そこをサンチアゴと名付けたのですが、彼らは定着する前にオランダに駆逐されてしまって、今では三貂角(サンチャオガッ)という地名に名残をとどめているだけです。

大航海時代の台湾は、原住民の居住地にオランダが、むりやり割り込む形で始まったというわけです。

そのままだったら、インドネシアと同じように、台湾にもやがてオランダの植民地が形成されたことでしょう。

ところが、そんな台湾に日本生まれの一人の若者が足を踏み入れたことで、のちのち台湾が中国に干渉されるきっかけを作りました。

 

オランダ時代の遺構<安平古堡>の城壁
オランダ時代の遺構<安平古堡>の城壁

2:鄭成功と清の時代

 

この頃、ニコラスと呼ばれる中国人の海賊が九州の平戸に身を寄せていました。

彼の本名は鄭芝龍(ていしりゅう)。欧州の文献によると、マカオで洗礼を受け、腕一本で倭寇の親玉に成り上がり、スパニッシュギターを爪弾く伊達男だったそうです。

芝龍は平戸藩士の娘・田川マツと結婚して、そこで生まれた長男を福松と名付けました。

日本生まれのこの少年が、のちにオランダ勢力を台湾から駆逐した英雄・鄭成功(ていせいこう)です。

鄭成功は近松門左衛門の戯曲『国性爺(こくせんや)合戦』のモデルとなったことでも知られています。

 

台南市<安平樹屋>近くの鄭成功像
台南市<安平樹屋>近くの鄭成功像

 

海賊・鄭芝龍は、明朝が弱体化した機会に乗じて政府と和解し、帰順しました。

中国ではしばしば反政府勢力が政府に丸抱えされて政府軍の一角を担うのですが、芝龍は余りにも無節操でした。

彼は妻子を連れて帰国し明朝の高官におさまったものの、その後、満州族が清朝を建国すると、明を見限って清に降伏してしまったのです。そのせいで鄭成功の母マツは非業の死を遂げてしまいました。

息子の鄭成功はそんな父親と袂を分かち、倭銃隊を率いて清と戦いました。

愛する母親がお調子者の父親の自分勝手な処世術の犠牲になったことが、彼を頑強な抵抗者に仕立て上げたのかもしれません。

寡兵を率いて南京を包囲、あと少しで陥落させるところまで攻めたのですが、陸戦では清の大軍にかなわず、撤退を余儀なくされました。

大陸での拠点を失った鄭成功は、倭寇のネットワークを再構築して台湾からオランダ勢力を駆逐し、そこを拠点として東シナ海に覇権を樹立したというわけです。

このとき、はじめて台湾という島が大陸に住む漢人たちに注目されるようになったのです。

 

鄭成功が占領した地域は以下の地図の赤色部分です。

彼は初めて台湾の一部を占領した中国人になったのですが、原住民側から見れば恐ろしい侵略者でした。

鄭成功は漢民族から「台湾開拓の祖」として英雄視されてきたのですが、近年の台湾では史書に残されている原住民大虐殺の記録が注目を集めています。

 

鄭成功軍の占領地と影響圏(ウィキペディア「鄭成功」の項より ⒸIfatson)
鄭成功軍の占領地と影響圏(ウィキペディア「鄭成功」の項より ⒸIfatson)

 

鄭一族の抵抗は長続きせず、1683年に鄭成功の孫が清に降伏したことで終焉しました。

この時点で初めて、大陸と台湾を結ぶ航路が開かれ、その後200年にわたり、福建省と広東省から漢民族が流入しました。

清朝政府はマラリアやデング熱が猛威を振るうこの島の開拓には関心を示さず、放置し続けました。

その上、女性の台湾渡航を法律で禁じたのです。

なので、移民の多くが大陸で食い詰めた男性だったと言われています。結果として、漢人と原住民との混血化が進みました。

このとき漢人との共存を選択した原住民は平埔族(へいほぞく)と呼ばれています。

彼らは漢化を受け入れ、伝統文化を喪失しました。

 

日本統治時代、平埔族の人々は一貫して漢人扱いされてきましたが、近年になって「我々も原住民だ」と主張するようになっています。

それは「我々は中国人ではない」という台湾人意識の覚醒を促しています。

つまり、

「我々の祖父の血筋は大陸から来たかもしれないが、祖母の血筋は台湾原住民だ。台湾人は大なり小なり原住民族のDNAを持っている」

という認識を、平埔族の末裔をはじめとする、台湾に住む多くの漢民族が受け入れつつあるのです。 

 

その一方で、漢人との交流を拒んだ原住民は徐々に山岳地帯へと移り住みました。

漢人たちは漢化を拒んだ人々を「蕃人」と呼んで見下し、追い詰めていったのです。

清朝政府が台湾省を設置し、台湾の経営に積極的に乗り出したのは今から130年ほど前、1885年のことです。

 

平埔族と原住民族の分布地図(ウィキペディア「台湾原住民」の項より)
平埔族と原住民族の分布地図(ウィキペディア「台湾原住民」の項より)

3:日本統治の時代

 

それから10年後の1895年、朝鮮半島の利権を巡って日清戦争が起こり、敗れた清は台湾を日本に割譲することで講和条約を結びました。

台湾住民はこれを承知せず、台湾民主国を立ち上げて抵抗したのですが、すぐに日本軍に鎮圧され、植民地支配を受けることになりました。

日本政府は漢人が支配していた平野部だけでなく、漢化されていなかった山岳地域の「原住民」をも武力鎮圧しました。

激しい抵抗を近代兵器で抑え、ようやく彼らを帰順させたと思った1930年(昭和5年)、中部高原の霧社(むしゃ)で原住民による大規模な武装蜂起があり、日本人100人以上が殺されました。

蜂起したセデック族は1000人余りが殺されたり自決したりして、生き残った老人や女性、子供たちの一部は平地に強制移住させられて監視を受けたと言います。

有名な「霧社事件」です。

この事件は2011年に『セデック・バレ』というタイトルで映画化され、空前のブームを巻き起こしました。

 

映画『セデック・バレ』(監督:ウェイ・ダーション)のDVDジャケット
映画『セデック・バレ』(監督:ウェイ・ダーション)のDVDジャケット

 

日本の植民地政府は彼らをそれまで「藩人」と呼んでいましたが、この事件のあとで「高砂族」と呼ぶようになって、それまで以上に日本語教育を徹底しました。

ついには、日本風の名前をつけさせることさえしたのです。

太平洋戦争では「高砂義勇隊」という名目で最前線に送られて、多くの若者が日本人として死傷し、また戦犯として裁かれました。

軍人ではなく軍属扱いだったという理由で遺族年金などが支払われず、また未払いの給与をちゃんと補償しなかったことも社会問題になっています。

 

蜂起したセデック族の頭目、モーナ・ルダオの像(南投・霧社)
蜂起したセデック族の頭目、モーナ・ルダオの像(南投・霧社)

4:国民党独裁から民主化の時代へ

 

1945年に日本が太平洋戦争に敗れ、大陸から蒋介石率いる中国国民党の軍隊がやってくると、原住民は「山地同胞」と一括されて、中国風の名前を使い中国語を話すことが強制されました。

年配者の中には今でも中国語より日本語が得意だという人もいます。

中国語で育った世代には民族語が伝承されていないので、祖父母が孫と会話することができないこともあるといいます。 

1978年の統計では、「山地同胞」を「九族30万人」と規定し、やがて中華の民に同化されるべき存在と見做していたそうです。

しかし、その後の民主化によって「原住民族こそが本来の台湾人である」という考え方が主流となり、すべての原住民族の文化を尊重することが台湾の安全保障に直結するという認識が共有されるようになりました。

そのため、「原住民」であることを以前は隠していたけれど、最近になって自己申告するというケースもあるそうです。

 

原住民族委員会がインターネット上に記載している2017年の人口統計は、以下のとおりです。

 

アミ族            209,203人(阿美族)※パンツァと自称することも

パイワン族      100,591人(排灣族)

タイヤル族      89,958人(泰雅族)

ブヌン族         58,336人(布農族)

タロコ族         31,446人(太魯閣族)※2004年タイヤル族から分離

プユマ族         14,118人(卑南族)

ルカイ族         13,303人(魯凱族)

セデック族       9,975人(賽德克族)※2008年タイヤル族から分離

ツォウ族          6,635人(鄒族)

サイシャット族  6,601人(賽夏族)

ヤミ族/ダウ族  4,599人(雅美族/達悟族)

 ※ダウを自称することが増えた

クヴァラン族     1,466人(噶瑪蘭族)※2002年アミ族から分離

サキザヤ族         930人(撒奇萊雅族)※2007年アミ族から分離

サオ族               780人(邵族)※2001年に承認

ラアルア族         398人(拉阿魯哇族)※2014年ツォウ族から分離

カナカナブ族       330人(卡那卡那富族)※2014年ツォウ族から分離

 

  計 約55万人(台湾全人口の2%未満)

 

ルカイ族の女性たち(屏東・霧台)
ルカイ族の女性たち(屏東・霧台)
セデック族の女性たち(埔里・清流)
セデック族の女性たち(埔里・清流)
アミ族の豊年祭(花蓮・満自然)
アミ族の豊年祭(花蓮・満自然)

 

以上の写真は、どれもお祭り等の際に撮影させていただいた盛装の場面です。

とても素敵な民族衣装でしょう? 

とはいえ、普段は我々とほとんど変わらない現代的な生活を送っています。

次号以降では、僕が訪ね歩いてきた台湾各地の原住民部落の様子を紹介していこうと思います。

 

Ⓒ WAVE UNIZON,  Yoshihito Ishihara  2018