「こんにちはー!」
高校から帰って、そのままバタバタ着替え、先生のお家へ走る。
汗ばんだまま元気良く扉をあけると、先生はくすくすと笑った。
「部活ではそれでいいけど、茶道に来るときは、もう少し、たおやかな言い方でごあいさつしなさい」
元気で活発な子だったら、とりあえず大人はオッケー出してくれる!と思っていたわたしは、顔を真っ赤にしつつ、やわらかな声に改めた記憶がある。
・・・
先生の茶室は大きな竹林公園の前にあって、池の水面には緑が爽やかに揺れていた。
茶室では、こぽこぽと釜から溢れる音。
小さな姿に、ぎゅうっと自然を凝縮したような季節ごとの和菓子には、「わあ!」と、いつも驚かされる。
夏は涼やかに、冬は重厚に、器が移り変わっていくのも楽しい。
そして、いつも変わらない甘くてほろ苦い抹茶が、すべてをどしっと受け止めてくれた。
“茶道の本質は不完全なものを尊ぶことにあります。
完全なものが存在しないように
人生と呼ばれるこの場所もまた、思うにまかせないもの。
ままならない日々を生きながら、心を澄ませて
「せめて私にできることをやりとげてみよう」と
やわらかな挑戦を試みること。
それこそが茶道の精神なのです。”
『本のお茶』には、こんな文章があった。
京都から高知の山奥に移って12年。
子育てや出張で忙しい日々のなか、お茶をいれて飲むことだけは、大切にしている。
・・・しかし、心を澄ませて生きて行くことって、難しいよねえ。
「いっそ鈍らせ、濁らせてしまいたいなあ」なんて思うことさえあるよ。
世の中で起きていることや、ネットで流れるあれこれ。
そういうものを見ていると、殺伐として、人間でいることがバカバカしくなり、本当にもう嫌だなって思う。忙しい仕事に追われる時には、心に隙間がなく、きゅうっと狭まることもある。
そんなせわしなさや葛藤を抱えながらも、作業の手を止めて、しゅんしゅんと湯を沸かしはじめる。
午後の黄金色の光のなかで、湯気があがる。
並べられた缶の中にはコーヒー、抹茶、裏山で採れた山茶。
烏龍茶に紅茶、ハーブティー。
今日はこれにしようかな。
選んだ茶葉をザッとポットに入れ、湯を上からこぽこぽ・・・注ぐ。
香りがやってきた瞬間、蓋をしめる。
二階のアトリエへとんとん、と階段を上がって、カップにお茶を注ぐ。
ふ~。
気がついたらさっきまで考えてたことはいったん忘れて、 何もない空間に入っている。
あ、緑がきれい。こんなに花が咲いていたっけ・・・
窓からの景色にも気がつく。
「場を開く」というのは、きっと、自分の中にも場を開くことなんだろう。
お茶はおもてなしにも使われ、人と人のあいだにある空間とも言えるけれど、一服のお茶をいれて飲む時間をとることで、自分の中にも「場」を開くことができる。
この「場」とは、人間世界に揉まれ、こちゃこちゃと動いてる自分を、違う場所から眺められるような空間だ。
その時空に移動することを助けてくれるのが、お茶の時間。
空間の中では、思いつかなかった新しい考えが、ふっと浮かんでくることもある。
そして、思い出す。
“ままならない日々を生きながら、心を澄ませて
「せめて私にできることをやりとげてみよう」と
やわらかな挑戦を試みること”
これだけは、自分さえ意識すればできる、ということを。
余白というのは、いつかの未来に預けるものではなく、いつだって自分の中に生み出していくものなんだ。周りの喧騒ではなく、自分の中に在り処を戻せば、力はまたじわじわとみなぎってくる。
太古の昔から闇があれば光があり、醜いものがあって、美しいものがある・・・
「乱世の中でも、こんな風に世界をとらえた人たちがいるんだ」と茶人に想いを馳せるだけで、ちょっと心が軽くなる。
ほんとうに話したい話題を、心ゆくまで話せる友達と出会うのはなかなか難しいけれど、本の中では、いつだって、気の合う友達と対話することができるのだ。
『本のお茶』の中には岡倉天心が住んでいて、わたしたちを待ってくれている。
紙をぱらりとめくるたび、お茶空間に、そっと入っていくような感覚。
写真と文章の余白は、静けさへの誘導になっている。
“お茶は、はじめは薬として用いられ、
のちに飲みものとして愛されるようになりました。
八世紀の中国では、お茶は風雅な遊びとして詩歌の域にまで高められ、
やがて十五世紀の日本において、美をきわめる宗教になりました。
すなわち茶道です。”
そう、何気なくまいにちの中でたしなむ。
そんな本やお茶は、薬であり遊びであり、
そして心の風穴をあけるものなのかもしれない。
茶道をはじめたあの頃から、もう20年。
のらりくらり、細々と続けている。
浮かれているときも辛いときも、仕事で成功したときも失敗したときも、お茶空間はいつでもそこにある。
「まあ、いっぷくお茶でも飲んでいきなさい」
— 今日も、わたしはわたしに言ってあげられるだろうか。
何もない空間を、迎えてあげられるだろうか —
自然の移り変わりのように、変わるということ。
そして変わらないということ。
いっぷくの静けさは、いつもわたしたちの居場所になってくれる。
忙しい日も、殺伐とした日も、あたたかな日も
お茶の時間だけは、暮らしの中にひそませて。
Ⓒ WAVE UNIZON, Keiko Hibino 2018