「モノ」についての一考

2017年12月21日

 

WAVE UNIZON 副編集長 高原 浩子

 

●「モノ」と「豊かさ」

 

「モノの豊かさ」ってなんだろう。

たくさんのモノを持っていること?

欲しいモノをなんでも手に入れること?

要らなくなったらすぐに買い換えて新しいモノに交換すること?

モノの価値や価格が大きい、すなわち金額的に高いものを所有すること?

丁寧に作られた、気に入っているモノだけに囲まれていること?

モノにとらわれないために、モノを排除して心を保つこと?

 

そのどれもが正しい。そしてどれもがぴったりとは当てはまらない。

それってなぜだろう。

「モノ」をめぐって私たちは、「モノが豊かになっても心は満たされない」とか「少ないモノで豊かな暮らし」というふうな「モノvs.豊かさ」の構図で取り上げられることに慣れて久しい。

でも、それも本当にそう?

私はそんなふうに立ち止まる。

モノを求める、所有するってそんなに豊かさと相反することなのだろうか。

 

新しいモノや好きなモノを求め、それを自分で使ったり、誰かに贈ったりする。

「モノ」と「豊かさ」。このふたつの間にはいつも「わたし」や「わたしたち」や「誰か」がいる。その人が「モノ」を手に、ある時は自分のために、ある時は誰かのために、嬉しくってホクホクした気持ちになるのなら、それは「豊かさ」って呼べるんだろうな。

 

例えば、お父さんが仕事帰り、路上で売られているおもちゃを見つける。それを彼の小さな子どもに「いいんじゃないかな」と思って足を止める。おもちゃを商っている店主はコワモテかもしれない。店主には不釣り合いなその可愛いおもちゃを、お父さんは買い求め、店主は品代を取る。そこに可愛いおもちゃがあって、不釣り合いな二人の男がいて、その二人ともが子どもを想像して、「子どもにいいんじゃないか」と思った。そうやって「モノ」が渡っていく。

その営みって、実はとても優しくて豊かなものなんだろうと思う。 

●「モノ」が手のひらに触れるまで

 

古今東西、文化の流れを進めた交流というのは、モノの動きとともにあった。シルクロードの隊商もそうであるし、大航海時代もそう。もっと近いところでは、日々の生活を支える「市(いち)」でのお買い物や神仏詣出のお土産なんかも、モノが誰かから誰かに渡る「交流」の一つであったといえる。

 

人びとは暮らしの必需品を求める一方で、珍しいモノや新しいモノを知り、それを欲しいと思った。誰かにあげたら喜ぶだろうと思った。まだ知らないそれを想像して、憧れた。そして商人たちは、どんなモノが欲しがられるか、それをリサーチして人とモノとをつないだ。モノが行き交う場ができて、そこには需要と供給があるばかりではなく、好奇心と憧れ、そしてそれがもたらされるという「ギフト」がきっとあったはずだ。

 

今だって、モノが私たちの手のひらに触れるまでには、同じようなことが起きている。誰だってモノが渡っていくための、モノを介した交流の、ひいては文化が進んでいくための当事者なのだ。 

●「モノ」をもたらしてみる試み

 

このたびの「UNIZON的台湾博覽會」では、台湾の現代の民藝をはじめ生活雑貨や食品など、台湾の人びとの暮らしの中にあるものを展示・販売することで、モノをもたらすという行為を自ら行ってみた。人びとの好奇心と憧れを満たしてくれる、そう思えるモノを、商人のように各地を歩いて探し出し、求めた。

 

「これはいいんじゃないか」、そう思って仕入れている時の気持ちは路上のおもちゃを買い求めるお父さんと重なるし、思い入れのある品が売れた時の気分は、遠い昔の商人のそれにきっと通じると思う。買い手にも売り手にもなってみて見えてきたもの。それは、モノが渡っていくことにまつわる一種のロマンであったかもしれない。

●「モノ」と文化

 

 好奇心や憧れ、ロマンといった事柄は一見、ビジネス上では夢物語のようであるかもしれない。しかし「モノの豊かさ」ではなく、「モノ」と「豊かさ」を分けて考えてみるとき、それらを結んできたのはいつだって、人びとの心や想像や記憶の中にある夢のような事柄なのではないだろうか。そしてそれは、個人はもとより、文化の進展・変容にとって、大きな原動力だ。

 

私たちは誰でも、自分自身や誰かの好奇心や憧れを受け止め、それらを満たすモノを運ぶ当事者になれる。そのこと自体がロマンであり「ギフト」なのだと思う。

私たちはもっと、そのことに正直になってもいい。

 

クリスマス前に。

Ⓒ WAVE UNIZON,  Hiroko Takahara  2017