川口葉子(ライター、エッセイスト)
『「中川ワニ珈琲」のレシピ 家でたのしむ手焙煎(ハンド・ロースト)コーヒーの基本』
中川ワニ
アートディレクション:有山達也
デザイン:山本祐衣(アリヤマデザインストア)
撮影:長野陽一
リトル・モア
定価:本体価格1400円+税
2018年2月22日発行
中川ワニさんの『家でたのしむ手焙煎コーヒーの基本』は、
たとえるなら、お店でパンを買ってきてトーストして食べている人に
「そのパンも家庭でおいしく作れますよ」と呼びかけて、
パンのレシピを懇切丁寧に一から説明しているような本だ。
どのページにもコーヒー的叡智があふれていて、何度もはっとさせられた。
焙煎を「豆を調理すること」ととらえる発想。
調理を通して追いかける「あじわい」は、どんな性質なのか。
それらを表現するワニさんの言葉の感覚的なわかりやすさと、論理的な裏打ち。
試してみたくなる。
第3章は調理の最終工程、つまりドリップのレシピである。
たまたま開いたページから目に飛び込んできたのは
「リズムが大事・まごつきはエグ味を生む」という小見出し。
……ああ、もしかしたらこれが濃いめにドリップしようとして失敗するときの原因?!
この本は、コーヒー粉の上にポットからお湯をそっとのせて、
1杯のコーヒーを完成させるまでの中川ワニ式の精密な工程を、
なんと驚異の40段階(!)に分けて写真と文章で教えてくれる。
コーヒー粉にお湯を注ぎながら注意深く目を凝らさなければいけないのは、
浮かび上がる泡の動き。
いつも泡をちゃんと見ているつもりだったのだけれど、
もっともっと解像度を上げて正確に把握する必要があったのだな。
泡の動きに呼吸を合わせ、リズミカルに気持ちよくお湯を注いでいく。
読みながら何度かイメージトレーニングをしたのち、
ワニさんの言葉が手元を照らしてくれるままにドリップしてみたら、
感動的な旨みのある一杯ができてしまったのだ。
ありがとうございますワニさん! バイブルです。
私がコーヒーを暮らしに必要なものリストの上位においているのは、
日々の喫茶時間をかけがえのないものだと思っているからだ。
喫茶時間、それはたとえば茨木のり子が綴った『行方不明の時間』と同じもの。
人間には
行方不明の時間が必要です
なぜかはわからないけれど
そんなふうに囁くものがあるのです
三十分であれ 一時間であれ
ポワンと一人
なにものからも離れて
うたたねにしろ
瞑想にしろ
不埒なことをいたすにしろ
……後略……
(『行方不明の時間』茨木のり子)
ひとは仕事や、集団や家族の中での役割や、友人との関係から
自分の位置を確認しながら日常生活を過ごしているが、
そんな関係性の中にまるごと絡め取られ、ずっと固定されたままでいると
息苦しくなってしまう。
誰でもない人間になってただぼんやりとするために、
私はカフェの扉を開けて行方不明になる。
自宅でも真夜中にコーヒーを淹れて行方不明になる。
茨木のり子の詩の後半はこんなふうに始まっている。
「目には見えないけれど/この世のいたる所に/透明な回転ドアが設置されている」
そう、喫茶しているあいだは、透明な回転ドアを押して日常の外に出ているのだ。
コーヒーはアンカー、つまり錨である。
たまに回転ドアの向こうで浮遊しすぎて、帰り道を見失いそうなときに
コーヒーの香りと味わいが心をしっかりとこの場所に連れ戻してくれる。
そして、この場所もそう悪くないと思わせてくれるのだ。
……この文章を書き終えたので、中川ワニ式でコーヒーを淹れて、
30分ほど行方不明になってきます。
それでは。
Ⓒ WAVE UNIZON, Yohko Kawaguchi 2018