Vol.2対談・研究者 長嶺亮子さんに聞く、中国地方劇の音楽と社会

アジアの表現者にインタビューを続ける山本佳奈子が、中華圏の文化について、あらためて沖縄から眺めます。


留学する少し前の2017年夏ごろ、元同僚で友人である研究者が紹介してくれた中国伝統劇の研究者が、長嶺亮子さんだった。私が留学した福建師範大学の海外教育学院中国語コースに、約15年前に留学し、また、私が住んだ同じ寮で生活していた人である。長嶺亮子さんとは、これまで何度か沖縄県内の中華料理屋で、台湾、中国、アジア等、主に中華をキーワードにいろんな世間話や情報交換をさせてもらっている。

 

留学中、旧正月休みのため一時帰国した私は、長嶺亮子さんにこんな話をした。中国で”伝統”とされる舞台芸術を見たが、当時の姿ではなく、不必要なまでにデジタル技術を用いていて、伝統であるかどうか懐疑的であるし趣に欠けるのではないか、と。現地で調査し、中国伝統の担い手たちと交流してきた長嶺亮子さんは、「中国の“伝統”は、良くも悪くもデジタル技術を含む新しい要素を取り入れ、変化していくことで発展してきた。それが中国の人たちによる伝統の継承方法だ」という話をしてくれた。

 

それから、私の中国伝統文化に対しての見方が変わり、どのような舞台芸術・芸能でも、心底楽しめるようになってしまった。激動の近現代を挟んだ──もちろん日本も多々影響を与えてしまっている──中国伝統文化の、今のカタチと昔のカタチ、そしてこれまで辿った軌跡を追想するのは、非常に有意義である。

が、これまで長嶺亮子さんと何度もお会いしておきながら、バイオグラフィについて伺う機会がなかった。場所は沖縄市久保田の中華料理店ジャスミンにて、これまでの研究や活動について話してもらった。(山本佳奈子)

長嶺亮子さん。2019年1月、沖縄市久保田のジャスミンにて。
長嶺亮子さん。2019年1月、沖縄市久保田のジャスミンにて。

革命京劇で修士論文

 

山本:私、実は亮子さんのプロフィールをこれまで聞いたことがなくて。あらためて、専門は何ですか?

 

長嶺:じゃあ自己紹介を。学生の頃から、京劇に代表されるような中国の伝統劇を専門に研究しています。肩書きでは、「中国伝統劇の音楽」を自分の専門領域として書いていて、劇の音楽をメインに分析するんですけど、音楽は文化の一つであり劇も社会を反映します。なので、社会と劇の関わりについても研究しています。学部生時代の卒論は、京劇についてでした。

 

山本:沖縄県立芸術大学で、京劇の研究をしたんですか?

 

長嶺:私は学生の頃から今もずっと沖縄県立芸大です。もちろん、県立芸大には京劇を専門にしている先生はいない。全国見渡して、中国文学の先生に中国伝統劇を専門領域とする方は多いですが、音楽の面から研究している方は少ないですね。よく「なんでずっと沖縄にいるの?」って聞かれます。でも、どこに行っても同じなんですよ。中国伝統劇の音楽を専門に研究する場は日本にはないに等しいし、この先生じゃないといけない、というのもない。学部では、古典的な京劇音楽をテーマに研究して、大学院のテーマでは共産主義崇拝、毛沢東崇拝の京劇を研究していました。中国では約10年間、そういった内容の作品しか基本的に上演できない時代があったんです。

 

山本:それって、革命京劇と呼ばれているものですよね?

 

長嶺:そう、文革時代の。

 

山本:陳凱歌監督の映画『さらば、わが愛/覇王別姫』を、こないだやっと見たんです。

 

長嶺:あの映画が、あの時代の”あの”京劇を取り上げた意味、とても画期的ですよね。あの時代が語れるようになった、という。でも、中国国内ではやっぱり上映できなかった。

 

『さらば、わが愛/覇王別姫』予告編

 

 

山本:そうですよね、上海でしか上映されてないとか。

 

長嶺:それもすぐ上映禁止になったとかなんとか。国外資本の映画だったし、中国では、あの映画はなかったかのようになっていた。今も公には上映できないだろうけど、映画の存在は知られているみたいだし、雑誌などで取り上げられてたりしているみたいですね。

 

山本:有名な俳優が出てるし、カンヌ国際映画祭でパルムドール受賞していますしね。大学院時代は、古典ではなく革命京劇のほうについて調べてたんですか?

 

長嶺:革命京劇と、あとその音楽。そして、社会がなぜそれをつくり上げさせたのか。私が修士論文に取り組んでいたあの時期、中国国内では、文化大革命はもちろん批判されるべきなんだけれども、文化大革命時代に作られた作品をちょっと懐かしむような流れが起き始めていた時でした。そこも疑問だったんですよ。あれほどの事が起きていた、あの頃につくられた作品を、懐かしむ人が21世紀に出てくるということが不思議だなあと思っていて。革命京劇の内容はコテコテの「毛沢東万歳!」だし、シーンに肖像画が出てきたり。社会主義に向かっていくためのベタベタな内容なんだけれど、伝統的なメロディを意図的に使ったりしている部分があるんです。「古いシステムや伝統を排除し、新たに創作した」と言われているのが革命京劇ですが、実は確信犯的に伝統の様式を使っている部分がある。しかもそれを、より伝統らしく使おうとしている部分がある。そういった点を音楽分析して、文革時の社会背景とあわせて研究しました。

 

山本:それを……、修士論文で書いたんですか?

 

長嶺:そう、だからちょっとざわついちゃったんですよ。「ブラックリストに載るよ!」「それは危ないんじゃない?」って先生方に本気で心配されて。でも、実際研究してみると、すでに時代が変わっていました。文革の時代から約30年も経ってたから、中国全体の空気というか、文化界でのそれぞれの意見も変わってきていて、予測していたよりもあの時代を語ることに対してオープンだったんです。実際に現地へ調査に行った時、リバイバル上演をする、という記事が雑誌に載っていたりしました。私は観ることができなかったんだけど。

 

山本:革命京劇の上演ですか?

 

長嶺:どちらかというとバレエですね。バレエ版の革命模範劇(※1)。あと、中国でテレビを見ていたら、CCTV(※2)の音楽チャンネルで、革命京劇の唄の一部分が流れていることもあったんです。先生たちは、「ブラックリストに載る」とかまで言ってたから、「何この温度差!」と思って(笑)。ただ、実際に行ってみないとこの感覚はわからない。当時、日本の人たちのあいだではまだ、文革時代に創られた芸能や文化に対する、腫れ物に触るような扱いがありましたね。

 

※1 文化大革命時代に創作された舞台劇全般を革命模範劇と呼び、革命京劇はその中に分類される。

※2 中国中央電視台のこと。中華人民共和国における国営放送テレビ局。

 

山本:なるほど。でも、日本では今でも腫れ物に触るような扱いをしていますよね。

 

長嶺:まだかなり強いかも。あの頃は「お前はなんてことをするんだ」みたいな反応もあったけど、意外と危険ではなかったし、あのときの経験は面白かったです。

 

山本:革命京劇については、修士課程のみで研究していたんですか?

 

長嶺:そう、たった2年間で書き上げたので、やれることにも限界があるし、荒さも目立つ。ただ、その間に中国と日本の研究者たちの前で研究発表する機会があったんですよ。中国の研究者たちのあいだでは、いまだに私は「革命京劇の長嶺」と覚えられてしまっていて。今も、久しぶりに会った先生には「あー!样板戏的亮子!」(日本語で"模範劇の亮子!"の意味)って言われる(笑)。「もうやってないから!」って思うけど、悪い思いはしていないですね。インパクトで覚えてもらえたということもあるし。また、それ以降、大学の卒業論文で革命京劇を取り上げた人が何人か出てきてるんですよ。中国からの留学生だったり、沖縄ではないけれど日本本土の大学生だったり。

 

山本:当時亮子さんがやっていた革命京劇の研究って、今、大日本帝国時代の軍歌やプロパガンダについて辻田真佐憲さんが執筆されているようなことに近いイメージでしょうか。辻田さんが書いておられることは、どっちが良い悪いっていう話ではなくて、冷静に分析していくこと。

 

長嶺:そうですね。今辻田さんが書かれていることに共感する部分はそこです。自分の立ち位置がどちらか、ということではなく、どちらかに加担したり否定することでもない。私は、ある意味、一歩引いて見てる立場です。でも、なんとなく舐めるんじゃなくて、追求して広げていく。「じゃあお前は、右なのか、左なのか」ってすぐ振り分けられがちですけど、そうではない。ネタで「自分は共産主義なんで」って言ったりはしますが(笑)。

 

山本:(笑)

 

 

振り切れた革命京劇に見た、京劇のコア

 

 

長嶺:ただ、あの時代の革命京劇を見たら、興奮するし面白い。決して染まっているわけではないですが。その思想をもって芸能をつくる、ということが面白いし、あの異常さと、それを盲目に信じる人たちがいたということに興味が掻き立てられます。当時の人々は操作されていたとも言えるだろうけど、そこに、ある種、本質があると感じたというか。革命京劇の中にも、伝統的な劇音楽のフレーズが隠れてるんです。革命京劇を推し進めた人たちがそれを排除しようとしなかったのは、”伝統的な京劇がなぜ京劇であるのか”を、相当意識してたんじゃないかと思います。伝統京劇はブルジョワ階級の娯楽で、だから否定しなければいけなかったし、そこで描かれている世界やそれを享受してた人たちは批判される対象になった。伝統京劇の中から本質を全部抜いて、西洋に負けないオーケストレーションにつくり変えていくと、もはや京劇と呼べないはずじゃないですか。ではなぜ、ああいう、一見すると京劇には見えない革命京劇を、わざわざ”京劇”と呼ぶのか?そこに立ち返って、”京劇らしさとはなにか”というテーマを、あえて、極端な例から見ていく。伝統京劇のなかで”京劇らしさ”を探していくよりも、極端に振り切った革命京劇のなかに残されているコアな部分を探したほうが、京劇が何なのかが見えてくるはず、しかも、音楽的なところから分析すると、より見えてくるんじゃないか、と、仮定しました。

 

ジャスミン 店内のようす
ジャスミン 店内のようす

 

 

長嶺:伝統京劇から革命京劇になる過程で、ビジュアルも変えたしメイクも変えたしストーリーも変えた。楽器編成も変えた。それでも革命京劇を”京劇”と呼ぶのは、音楽的なところに何かが残っているんじゃないか、と。それがなぜ見えたかというと、学部の頃に書いた卒論が役立ったんです。今見れば研究ともなんとも言えないんだけど、伝統京劇の音楽から代表的なメロディやフレーズを挙げて、「京劇の音楽っていうのはこういうものです」と書いた論文でした。そのときに挙げた京劇のメロディやフレーズが、内容的に振り切れた革命京劇にも、やっぱり残ってるんです。革命京劇が”京劇”と呼ばれる、ギリギリの”京劇っぽさ”を保っているコアは、これだと断言できるんじゃないか。そして現地にインタビューしに行くと、「このメロディを抜くわけにはいかなかったんだ」っていう話をやっぱり聞けたりして、あながち間違いじゃなかったんだと。けれど、修士論文書いてから、だんだん「”革命京劇の長嶺”じゃないんだけどな〜」ってむず痒さを感じてきて、やーめた、って。

 

山本:え、やめたんですか?

 

長嶺:しばらく赤い世界はお腹いっぱいだな、と。ただ、学部から全体を通して研究してきているのは、「伝統劇のアイデンティティ」。例えば京劇の京劇たるメロディ=京劇のアイデンティティは、外に行った人たちにとってはどういう存在になるのか。それを博士課程で調べ始めたんです。そこで、シンガポールの中国系移民について考え始めました。テーマはまだ揺らいでたんですがシンガポールに少し滞在して、お寺で見た芸能が、後に博士論文で書くことになる台湾の伝統劇だったんです。言葉は閩南語(※3)。シンガポールで見たその劇が面白くて、調べたい。でもその頃、福建師範大学に留学することがもう決まっていました。

 

※3 福建省の南部一帯、閩南と呼ばれる地方で使用される言語。台湾で「台湾語」と呼ばれる言語も、閩南語とほぼ同じ言語である。

 

 

長嶺:シンガポールに未練を感じながら福建に行ったら、その劇は大学のある福建省福州市では上演されないけど、福建省漳州市で今でも上演されている劇だってことがわかったんです。中国って、地方の数だけ、言葉の数だけ、芸能がある。特に福建は、縦に長くて山や川で分断されてる。そういった自然環境の影響を受けて、言葉・方言が本当に多様。福建省北部の福州では、シンガポールで見た地方劇「歌仔戯」、閩南語で「ゴアヒ」は、やらない。でも、福建省南部の厦門と漳州、あの一帯では上演しているんです。福建師範大学の音楽の先生が、漳州の歌仔戯で論文を書いた先生を知っていて、その先生を紹介してもらって、学外で一対一の授業をしてもらいました。留学期間の後半になったとき、福州で机上で学ぶだけではもったいないと思って、漳州へ通うようになりました。今のように便利に移動できる時代ではなかったけど。

 

山本:高速鉄道は?

 

長嶺:いえ、あの頃はまだ高速鉄道はなくて、高速バスで通っていました。一日がかりで福州から漳州まで移動して、それから、なんのあてもなしに勘で劇団を探しました。「漳州が歌仔戯のルーツということは、絶対どこかでやってるはずだ」と。携帯で地図も見れない時代です。「歌仔戯の劇団はどこ?」と、聞き回って探しました。ただ、閩劇(※4)にも公営の劇団があるように、漳州にも公営の歌仔戯劇団があるんです。漳州では同じ劇のことを薌劇と呼ぶのですが、薌劇団の場所をついに見つけて、行って、「また来週来るから!」って。そういうことを何度か繰り返してました。

 

※4 閩劇は、福建省福州市あたりの中国地方劇。中国のあらゆる地方に、京劇と似た伝統地方劇が存在する。閩劇の言語は福州話。

 

 

 

福建省漳州市は福建省の南部に位置する。

 

 

山本:毎週末、福州から漳州に通っていたんですか?

 

長嶺:さすがに授業もあるから、毎週ではなかったです。あと、劇団は公演であちこちに行っちゃうから、事前にアポを取って、劇団が地元にいるときは行っていました。けれども、自分が日本に帰国したら福建を調査地にするのは厳しい。沖縄と福建には直行便が通っていないし、今みたいにLCCもなかった。さらに、個人的なモチベーションもだだ下がりの時期だったから、そもそも研究なんて私にはダメだ、やめよう、と思って、一回研究をおやすみしたんですよ。けれども、器が小さいから研究を完全にやめることができなくて。沖縄から福建に行くのは便利ではないし、研究で訪問するにはビザが必要。モチベーションも下がっているけど、でも、今までやってきたことがゼロになるのは……って。そんな私を見かねて、大学の先生が、私に学校の事務室での仕事を紹介してくれました。そして、夏休みに「遊びに行こうかな?」って気楽に台湾へ行きました。

 

山本:そこでやっと台湾に行かれたんですね。

 

長嶺:どうせ行くんだったら、最初にシンガポールで見た劇に繋がるものを見たい。シンガポールの人たちは、あれは台湾の劇だって言う。シンガポールの劇団の人たちは、「台湾からVCD(※5)を手に入れて、脚本・ストーリーを頂戴してシンガポールでやってる」って言っていた。福建に行くと、福建の先生は、「福建の劇だ、福建の漳州がルーツだ」って言う。どっちがルーツなのか、よくわからない。でもとりあえず、台湾の宜蘭がこの劇のふるさとと言われているので、行ってみたんです。いつものごとく、劇団の匂いがする方向に行って、劇団見つけて、「見せてー!」って。みなさん優しいから、「今日はあそこに行ってこの演目を上演するから、一緒に車に乗ってったら良いよ」って。毎日毎日彼らにしつこく付いて回って、そうするといろんな情報が入って、「考えるって楽しいんだな」と改めて感じました。

その後、台湾の文化政策と伝統芸能を調べて、いざ、学生に復帰することになりました。ただ、復帰するということは論文を書くということ。ここからの二年間で研究したのは、伝統劇のアイデンティティ論と、政策でした。福建省漳州の公立劇団も、台湾宜蘭の公立劇団も、どちらも同じ劇をやっていて、どちらも「うちがルーツだ」と言ってる。これって、政治の問題がたくさん絡んでくるじゃないですか。政策に加えて、台湾意識というものも考えるようになって、伝統劇のアイデンティティとあわせて、音楽的に分析し論じたのが私の博士論文でした。

 

※5 CD-ROMに映像データを保存したもの。

 

長嶺:そして、今は何しているかと言うと。台湾が日本に統治されていた時代のラジオやメディア、レコードを調べています。それも、私のこれまでの研究とリンクしているんですけど、台湾の歌仔戯は日本統治時代に生まれたんですよ。台湾において、歌仔戯が劇として発祥して、商業的なものになり、ブームを起こしていく時期。この時期が、まるまる日本時代に含まれます。ちょうどレコードが普及した時代にも重なるし、少し遅れてラジオも普及していきます。台湾の複雑な歴史の転換期に加えて、新しいメディアが生まれ、娯楽のあり方が変わり、劇場という商業施設が出来る。台湾の歌仔戯が盛んになっていく時期も重なる。だから、台湾の歌仔戯は、一言に伝統劇と言っても、時代の影響を凄く受けていて生々しい。日本の新派劇や歌劇団が日本統治時代の台湾にたくさん興行に来ているから、影響を受けて少女歌劇のエッセンスも取り入れられていく。また、台湾の歌仔戯は、日本時代には日本政府から、戦後は国民党政権から活動の規制を受けたこともありました。

 

 

劇が上演されている空間がおもしろい

 

山本:京劇の音楽を学部生時代に研究されたことに始まっていますが、そもそも、なぜ中華圏の伝統劇に興味を持ったんですか?

 

長嶺:私もわからないんです。

 

山本:沖縄県立芸大では、他に誰も中国地方劇を研究している人いなかったんですよね?

 

長嶺:いないです。影響は受けていないんですよ。私は民族音楽を学びたくて県立芸大に入ったんですが、民族音楽って範囲が広すぎる。領域も、地域も。最初は京劇を研究するつもりで入ったわけではないし、漢文のテストとか高校時代本当にダメでした。けれど、その頃ちょうど、アジア映画をたくさん観られる時代になっていました。高校生から浪人中の頃。

 

山本:王家衛の映画が流行ってた時代ですか?

 

長嶺:王家衛の映画が沖縄で話題になる頃よりは、前だったと思います。『さらば、わが愛/覇王別姫』はリアルタイムで観ていないけど、香港映画や、蔡明亮の映画が、リウボウホールや衛星放送で上映されるようになった時代。東京より遅れてはいたけど、沖縄でも観れるようになってきてた頃です。

沖縄県庁前のパレットくもじに、リウボウホールっていうスペースがあったんです。そこで時々単館系の映画を上映していました。パイプ椅子だから2時間ぐらい座ってお尻痛くなるんですけど、そこでは良質の映画が観れました。当時、沖縄でそういった映画を観ることができたのはそこぐらいで、浪人の頃から観に行って、アジア映画に触れるようになっていって。大学2年生か3年生の卒論テーマを決める、っていう時に、先生と雑談していたなかで、『さらば、わが愛/覇王別姫』と『活きる』に出てくるメロディの話になったんです。

 

山本:張芸謀監督の『活きる』ですね。

 

長嶺:あれも伝統劇を描いてる映画だけど、『さらば、わが愛/覇王別姫』とは音楽の部分で共通するものがある。「なんでこの映画とあの映画、違う映画なのに音楽が似てるのかなあ?」と疑問に思いました。そういう話を先生にしたら、「それ(卒論で)やったら?」って言われて。 その当時は、それが伝統劇に使われるメロディをモチーフにした映画音楽だった、って知らなかったんです。後にわかったのは、伝統劇の中に出てくるメロディは決まっていて、それを使いまわしていく。そのモティーフを、音楽のアレンジャーが利用して、映画音楽に使っていくということなんだと。でも、今思えば、なんでそのときに、”映画音楽”がテーマじゃなかったのか。それはわからないです(笑)。もともと京劇ファンではないし、今も、さほど演目自体には詳しくない。学生時代に、京劇マニアの他の専攻の学生に会ったことがあるんですよ。「やっと一緒に語れる人がいた!」って目をキラキラさせて私に話してくれたんだけど、私は何も答えられなくて(笑)。それにしても、山本さん留学中あんなに閩劇にハマるなんて。

 

山本:いや、そもそも私は京劇自体を知らなくて、あの数少ない福州のエンターテイメントを探し抜いた挙句の、閩劇鑑賞でした。

 

長嶺:あの動向がとっても面白かった。何を観に行ってるんだろう?って。

 

 

山本による閩劇についてのInstagram投稿。留学中、閩劇や地方劇を観劇した際はすかさず投稿していた。

 

 

山本:私は、単にステージ上でなんかやってることを見るっていうことが基本的に好きだから。

 

長嶺:そういう入り方も面白いなと思いました。私がステージのものに対して興味を持ってこれなかった理由は、ステージの中の世界に入り込めない。演じられていく世界に入っていけない。今、まさに目の前にいるのに、世界が完全に断絶するじゃないですか。それが子どもの時から理解ができなくて。

 

山本:ここから先がステージだったとしたら空気が一瞬で変わる、みたいな?

 

長嶺:完全に。ときどきその境界を超えて絡んでいく、っていう演出はあるけど、基本的には出来上がってる物語が舞台で行われている。テレビを見てるかのようで。こっちに語りかけてくることなく、断絶している、あるけどない世界。その環境がとっても違和感を感じて、好きになれない。

 

山本:私もその点でいうと、非日常なことは大嫌いなんです。その感覚はすごく理解できるんですけど、私が舞台を観ているときは、裏方の脳みそで観ているかもしれない。

 

長嶺:いつ頃からこういう舞台って足を運ぶようになりました?観る側として。

 

山本:小さい頃に親に連れて行かれたコンサートとかですかね。大阪城ホールとか。ステージ上の人は蟻のようで、何も見えないからほとんどモニターで見る。謎だなあと。ただ、一応音楽というものが好きであるような人生を歩んできたから、ライブハウスとかには行く。ライブハウスでも、わざとらしいパフォーマンスは気持ち悪いと思ってます。若い頃はそこに盲目になれたけど、年取っていくとどんどん苦手になっているかもしれません。

 

長嶺:私の家は両親が西洋音楽をやっていたので、オペラとかによく連れて行かれました。でも、「ビデオでいいじゃん」とか思ってたんですよ、子どもの時。画面と何が違うのかな?と思ってて。今は、いろんな見方をして、空間そのものが面白いと思っています。中国の伝統劇って長いでしょう。2時間とか2時間半ぐらい。私、せいぜい最初の15分ぐらいしか観ていなくて、あとは、感情移入して泣いてるおばちゃんがかわいい~!とか、ボリボリ何か食べてる人とか、そういう周辺の人たちを見てる。この空間の面白さ。それから、劇場ではないところ、仮設舞台で上演している時なんかは圧倒的に面白い。

 

山本:日本の舞台の常識から見ると、ツッコむところがいっぱいあるじゃないですか。上演中にトイレへ行ったらそこが楽屋の通路と繋がってて、役者が衣装化粧そのまんまの格好でタバコ吸ってるのが見えたりとか。オケピが上から覗けて、楽隊員が全員普段着で、自分のパートが出てくるギリギリまで携帯触ってるとか。もう、みどころが多すぎて。福州で観た閩劇では、最後、カーテンコール時の音楽は生演奏でない録音音源を流すことが多くて、そうすると、オケピにいた楽隊員は仕事終わったからカーテンコールの最中に堂々と立って帰り支度を始める(笑)。

 

長嶺:その生々しさが、見るたんびに面白くて。ここが私は観たかった!っていうところを、山本さんがだいたいツッコミいれてくれてるから面白かった。

 

山本:ただ、楽隊員は、仕事を完璧にやってるじゃないですか。ほとんどミストーンとかしてないし。さすがに司鼓(※5)の人は携帯見れないじゃないですか。完璧に演者と息合わせて演奏しているし、そういうところを見てプロフェッショナルだなあと感心しました。

 

※5 中国地方劇の演奏楽隊における指揮者兼打楽器奏者。

 

 

長嶺:観察しているところが、そこそこそこそこ!って。

 

 

山本:私も劇の内容全然観てないですね(笑)。

 


ジャスミン外観
ジャスミン外観

2019年1月14日、沖縄市久保田ジャスミンにて対談。

構成、写真、注釈テキスト 山本佳奈子

Ⓒ WAVE UNIZON, Kanako Yamamoto 2019

 

 

長嶺亮子(ながみね・りょうこ) プロフィール

主に民族音楽の研究を行なっている何でも屋。専門領域は中華圏、とくに漢族の伝統音楽。ときどき沖縄県立芸大の非常勤講師など、たまにバリガムラングループ・Matahari Terbitのメンバー。趣味はどこかで食べた中華料理の再現実験。沖縄県うるま市出身。

 

 

山本佳奈子(やまもと・かなこ) プロフィール

ライター。アジアのメインストリームではない音楽や、社会と強く関わりをもつ表現に焦点をあて、ウェブzine「Offshore」にてインタビュー記事を執筆。不定期に発行している紙のzineでは、エッセイを書く。尼崎市出身。2015年から那覇市を拠点とし、沖縄アーツカウンシルにて2年半勤務。沖縄県と福建省の交流事業を活用し、2017年9月から約10ヶ月間、福州市にて語学留学。 https://offshore-mcc.net