Vol.3 エッセイ『海峡を渡る』

アジアの表現者にインタビューを続ける山本佳奈子が、中華圏の文化について、あらためて沖縄から眺めます。

 

平潭島にて
平潭島にて

 台北港から、中国に渡る船が出ている。留学中、旧正月の長い休みを利用して一時帰国していた私は、福州へ戻るときにその船を利用した。台湾に詳しい友人や、台湾出身者にその船の話をしても、「台北から中国に船が出ているなんて、本当に?そもそも、台北港なんて聞いたことがない」と、言われた。私は確かに、2018年の2月、台北港から船に乗り、台北から西へ約150キロの地点にある中国福建省の平潭島へ到着した。約3時間の船旅だった。

 

 旧正月の前後は中華圏を発着する航空券代が高額になる。旧正月に帰国できたのはいいものの、この時期に、どうやって福州に戻るか。何度も電卓を叩いたうえで、船と陸路を選択した。台北港から平潭島へ渡る乗船券は、旧正月でもさほど値段は上がらない。片道約3000台湾ドル、日本円にして約1万円で台湾海峡を渡ることができる。船の名前は「CSF海峡高速」。あの一触即発となった海峡を、本当に毎日船が往復している。平潭島には大陸から橋が架かっているのでバスで福州まで行ける。

 

 留学直前に栄町市場の宮里小書店で買い、留学の前半期に読んだ本がある。台湾の台湾語人・中国語人・日本語人―台湾人の夢と現実』(若林正丈著・朝日新聞社)という本。恥ずかしながら、これを読むまでは両岸関係をあまり知らなかったと言える。1995年頃の李登輝訪米と中国による台湾近海へのミサイル発射、史上初の総統直接選挙戦など、緊迫の1年間を台湾で過ごした著者が、日記形式で綴っている。それを読んでいたから、私も、あの海峡を船が結んでいるなど半信半疑だった。

 

 平潭島についてのことも、私の周囲で知っている人はいなかった。ただ、私は中国で見たテレビの旅行番組で、平潭島についてなんとなく知っていた。台湾から近い島だから、台湾と食事も似ているし、民俗文化が似ている。そんなことをテレビは伝えていたように記憶している。

 

 

台北港
台北港

 

 CSF海峡高速に乗る日。早朝、台北駅のそばから、台北港に向かう大型バスに乗った。バスはほんの30分ほど走って、台北港に到着した。コンテナが並ぶだだっ広い港に、小さなターミナルビルがある。バスを降りた人は、みなこのビルに入っていく。誰も違う方向に向かう人はいなかったので、私も、みなと同じ方向に進み、みなが並ぶように並んだ。カウンターでパスポートを見せて、自分の名前が入った乗船券をもらい、また、並んだ。何に並んでいるのか正直わからなかったが、みなが並ぶから、とりあえず、自分もみなと同じように小慣れているフリをして、並んだ。

 

 出発までに、もっとたくさんの人がやってきて溢れかえるのかと思ったが、全部で50人ほどにしかならなかった。こんなにガランとした待合ロビーは珍しい。中華圏ではいつも、何に乗るときも乗車率が高く、そういう状況に慣れてきていた。整列した私たちは、スピーカーから大音量で流れる割れた声のアナウンスをきっかけにして前に進み始め、出国検査を通り、船に乗り込む。船は、時間通りに出航した。

 

 海峡は揺れる。最初は、甲板に出たりして、遠くに霞んでいく台湾島を優雅に眺めたりした。外に見えるものが何も無くなってからは、座席でおとなしく座ることにした。天候は曇り。湿度は高い。いつ雨が降ってもおかしくなさそうな天気。海峡は、とても静かとは言えず、船はずっと大きく揺れていた。気持ち悪くなりそうだったので、必死に遠くを見たり、一箇所でじっとしないようにしたりした。座席三席ほどを潰して、靴を脱いで仰向けに寝てしまった人がいた。私と同じく船酔いしそうでそうしているのかもしれない。私も真似したほうがいいかもしれない。

 

 船は高い波をのぼってくだって、それを5秒間隔ぐらいで繰り返すから、この3時間が長くて仕方がなかった。

 

海峡から見る台湾島
海峡から見る台湾島

 船内進行方向の一番前の窓際に、丸テーブルがいくつか並んでいる。それぞれテーブルごとに、数脚の椅子もセットされている。テーブルも椅子も、床に打ち付けられていて、ただ、椅子は床に打ち付けられた棒を中心にしてクルクル廻るようになっている。波で揺れるたびにその椅子が勢い良くクルクルと廻り、それが視界に入ると、また私の平衡感覚が乱される。

 

 テーブル席のひとつが、盛り上がっていた。たまたまこの船で会った中年の女性二人と中年の男性二人。女性二人が話していた会話に、男性の一人が飛び込んだ。女性たちは、中国のどこかの地方の食べ物について話していた。男性は、その地方出身だったようで、慌てたように会話に入った。

 

 会話の途中で男性が、「あなたたちは台湾から?それとも中国へ帰るのですか?」と聞いていた。女性二人は、「台湾から。でも家族がこっちにいるから、しょっちゅうこの船に乗ってる」と、返していた。

 

 やっと船のスピードが落ち、揺れがおさまってきた。同時に、乗客はみな一斉に身支度を整え始めた。景色も急に変わった。それまで窓から見えるものは、白い空と暗い灰色の海だけだった。この瞬間から、ゴツゴツしたベージュ色の岩と、それにまとわりつく深い緑がちらほら見えるようになってきた。ところどころ海から顔を出した岩が、陸に近づくにつれ、密度高く集まっている。その向こうに広がる陸が、平潭島らしい。

 

平潭島への到着
平潭島への到着

 

 窓の向こうに、習近平が青空をバックに微笑んでいる大看板が現れた。鮮やかな青色と鮮やかな赤色文字の看板は、ベージュ色の岩肌に非常に映える。看板は、近づくほどにぐんぐん大きくなる。最初想像していたよりも、もっと巨大な看板らしい。どんどん、どんどん大きくなる。笑顔の横には『両岸一家親 共圓中国夢』と書かれていた。『両岸(台湾と中国)はひとつの家族。共に描こう、チャイナドリーム』というような意味だろうか?

 

 乗客定員の1、2割しか乗っていなかったとみられる船内の乗客は、スタスタと出口に向かって動いていったので、ガランとしてしまった。置いていかれては困る。みなと同じ列に並ぶ。おそらく、先ほどの中年女性たちのように、この船に乗っていたのは定期的にこの船を利用する人たちばかりなのだろう。私のように、呆気にとられてその看板を眺めている人は、一人もいなかった。誰も気に留めていなかった。

 

"両岸一家親 共圓中国夢"
"両岸一家親 共圓中国夢"

 

 平潭島で泊まった宿とその周辺地域は、まったく好きになれなかった。以前、テレビで見たような美しい漁村の風景はそこになかったし、造られた観光地だった。清朝時代の様式を模して造られた、模造の街。2015年に建設されたらしい。旧正月を過ぎたからなのか、まだ旧正月休みが明けていないのか、人の気配がほとんどないゴーストタウンだった。この模造の街の中ではどんな食べ物飲み物も高い。

 

 中国大陸ではこういった模造の街を見ることは少なからずあり、そういった街に迷い込んでしまった時に、もう驚かなくなったし、失望もしなくなった。2019年10月、私は中国浙江省桐乡市烏鎮で開催された『烏鎮演劇祭』へ仕事で行った。演劇祭会場となったエリアは、歴史古い美しい水都、烏鎮を現代風に”リノベ”した、まさに模造の街だった。日本から来た私たちスタッフの多くは、これを「塀の中」と呼んだ。塀の外に行けば、必ず一般市民が住み暮らしている街があるので、早々に塀の外を歩いて、日用品を探し必要な食事をとるようにした。

 

 平潭島の宿に到着してまもなく、雷が鳴り大雨が降り始めた。台北からの移動で疲れ切っていた私は、外出する気力もなかったのでちょうど良かった。昼寝をした。さほど寒くない日で、湿度は大変高かった。分厚い雲が空気を圧迫して偏頭痛を起こしていたから、天から大量の水が落ちてきて、すっきりした。目がさめると、もう雨は上がっていて少し晴れ間が見えていた。さすがに、平潭までやってきて、この模造の街のなかだけで過ごしては勿体ない。「塀の外」へ出てみることにした。

 

平潭島にて
平潭島にて

 

 適当に塀の切れ目を抜けると、片道4車線ずつの大きな道路があって、でも車は30秒に1台が通り過ぎるぐらいの静けさだった。向こう側には、「家常菜(※家庭料理のこと)」と書かれた看板が見えるから、あちらは模造の街ではない、一般市民の生活があるはずだ。道を渡って、「家常菜」の店がある路地を進み始めた。

 

 その店はすでに営業していないようで、その隣にある食堂も、もう営業していないようだった。周辺には、今は人の気配がしていないが、確かに人の住んでいそうな家々がある。石を積んで造られた小さな家屋は、テレビで見た平潭の映像と似ているかもしれない。しかし、私はそのテレビの映像をはっきり思い出せなくて、自信がない。鶏が民家の庭を歩いており、もっと進めば、山羊が集団で歩いていた。

 

 大きな水溜りを避けながら、たまに通る電動バイクや車の邪魔にならないように歩いた。この細く歩きづらい路地は、観光客が歩くための道ではないはずだ。私のような言葉の通じない、何の目的もない観光客は「塀の中」でおとなしく模造の街を眺めておくほうが、環境保全のためだ。では、どうして他人の土地を私は歩きに来たのだろうか。少しずつ鮮明になってくる疑問の処理に困り始めていた。

 

 

平潭島にて
平潭島にて

 

 路地を抜けたところに小さな交差点があって、それを渡り少し行くと、海にでるようだった。渡るか、引き返すか。少し悩んで、渡ることにした。そっちの方向に、人はいないように見えたし、海を見てすぐ引き返すと決めた。

 

 道を渡って200メートルほど歩くと、もう道が塞がっていた。そこからは、砂浜に降りなければ進めない。遠浅の海で、また、この時間は引き潮だったのかもしれない。波打ち際が数百メートル先に見えて遠い。その波打ち際まで、何ヘクタールもありそうな、だだっぴろい砂浜が広がっていた。ずいぶん遠くから波の音が聞こえる。その広大な砂浜には、牡蠣の養殖装置らしい網かごが散らかっていた。特に表示はないのだけれど、その砂浜に入るには、牡蠣の養殖に携わっていることが条件とされるような気がした。引き返すことにした。

 

 方向転換し数十メートル歩くと、オートバイの横に立ったじいさんに声をかけられた。急なことだったので驚いた。それは方言だったようだけれど、頭のなかで聞こえた音調と発音を整理すると、「你从哪里来?(どこから来たの?)」と聞いていたように思う。「あっちのホテルから来ました」と、合ってるのか合ってないのかわからない返事をすると、じいさんはまた何か言って、笑っていた。わからなかったから、私も笑った。そのすぐあとに、若い男性がじいさんのところにやってきて、急いでいる様子で話し始めた。その隙に、私は来た道を戻り始めた。模造の街に戻ることにした。

 

平潭島にて
平潭島にて

 

 模造の街に戻ってくると夕食の時間帯になっていた。多くのレストランの看板が、ギラギラと光る。台湾牛肉麺と大きく書かれた看板があったり、台湾式と銘打ったミルクティー屋もある。さっき歩いてきた海まで続くあの路地を、もう一度思い浮かべる。平潭島と台湾に共通する文化とは何なのか。私はそれ以前に、台湾の文化をあまりにも知らない。無知な旅行者でありながら、台湾文化やアイデンティティに興味を抱いていた自分が、滑稽に思えた。

 

 その夜は、台湾牛肉麺の看板の店で「台湾牛肉麺」を食べた。案の定、その前日に台北で食べた牛肉麺とは違う味だった。さらに可笑しくなった。

 

 

平潭島にて
平潭島にて

 

Ⓒ WAVE UNIZON, Kanako Yamamoto 2019

 

 

筆者プロフィール

山本佳奈子(やまもと・かなこ)

ライター。アジアのメインストリームではない音楽や、社会と強く関わりをもつ表現に焦点をあて、ウェブzine「Offshore」にてインタビュー記事を執筆。不定期に発行している紙のzineでは、エッセイを書く。尼崎市出身。2015年から那覇市を拠点とし、沖縄アーツカウンシルにて2年半勤務。2017年9月から約10ヶ月間、沖縄県と福建省の交流事業を活用し、福州市にて語学留学。 https://offshore-mcc.net