Vol.4対談・日本と中国、台湾を音楽で繋ぐ寺尾ブッタさんに聞く、中国にハマった当時のこと

アジアの表現者にインタビューを続ける山本佳奈子が、中華圏の文化について、あらためて沖縄から眺めます。


寺尾ブッタさんは、日本のライブハウスやインディーズ・レーベル界隈で良く知られた裏方である。台湾や中国と日本を、音楽コンサートや音楽出版の形で繋いできた。

 

2005年に東京青山に位置するライブハウス<月見ル君想フ>に就職。店長をしばらく務めた後独立し、音楽会社「大浪漫娛樂集團(英名:Big Romantic Entertainment)」を立ち上げた。青山月見ル君想フは大浪漫娛樂集團で経営を引き継ぐこととなり、台湾で2014年に開店した<月見ル君想フ台北店>の経営とあわせて、レーベル、コンサートプロモーターとしての業務も行なっている。レーベルでは台湾のバンド落日飛車(英名:SUNSET ROLLERCOASTER)や落差草原WWWW(英名:Prairie WWWW)をリリース。コンサートプロモーター業としては、水曜日のカンパネラの中国フェスティバル巡業や、シャムキャッツ、CHAI等の台湾ライブや中国ツアーも手がけた。

 

この数年、日本の音楽業界は「アジア」「アジア」と近隣国に注目するようになった。しかし現時点で寺尾ブッタさんの競合相手となるような中国語を使えるコーディネイターが現れてこないことは、些か不思議だ。が、もし現れたとしても、寺尾ブッタさんを超えることはなかなか難しいはずだ。それは、寺尾さんが中国語を使えるだけではなく、中国語圏で生きる人々の文化や風俗、歴史や社会を熟知したうえで仕事をしているからである。たとえ扱うジャンルがロックやポップスだったとしても、歴史が紡いだ文化や社会は切り離せない。

 

では、その寺尾さんはなぜ中国語圏の文化に魅力を感じ、どのようにして没入していったのか。寺尾さんが音楽系メディアではこれまで語っていない、より深い過去を語ってもらった。(山本佳奈子)

 

落日飛車(英名:SUNSET ROLLERCOASTER)

 

京劇×バンド、京劇×ライブハウス

 

山本:寺尾さんの個人史の中で非常に気になっているのは、横浜中華街のお祭りで、京劇コスプレで優勝したと?

 

寺尾:初代チャンピオンですね。二回目がなかったので、永年チャンピオンです。僕がやっていたバンド「泰山に遊ぶ」のメンバーで、『横浜中華街仮装大会』みたいな名称のイベントに出ました。あれ、一体なんだったんだろう……。横浜中華街が主催してる国慶節のイベントです。その年は、素人からの応募でパレードに出演できる枠があって、その素人枠の中で僕らがチャンピオンだったんです。

 

山本:その写真はあるんですか?

 

寺尾:あります。

 

中央あたり、ピンク色の衣装を付けた「小生」役になりきった人が寺尾ブッタさん。(提供:寺尾ブッタ)
中央あたり、ピンク色の衣装を付けた「小生」役になりきった人が寺尾ブッタさん。(提供:寺尾ブッタ)

 

寺尾:確か、観客投票だったんですよ。1番だと思う団体にシールを貼る、という。これが実は、一人で何枚も貼りたい放題だったらしく、いっぱい友達を呼んでた僕らは、出来レースで勝たせていただいたということで……。

 

山本:(笑)。泰山に遊ぶは、中国風メロディを取り入れた音楽をやってましたが、メンバーみんなが中国好きなんですか?

 

寺尾:いや、そういう風に、コントロールしていきましたね。本当に嫌いだったら、やってないと思うんです。別にそんなに興味はないんだろうけど、オルタナなもののひとつとして面白がって受け入れてくれる人たちだったんで。

 

山本:寺尾さん、そういうのうまいですよね。好きとか嫌いじゃなくて、なんとなく適当にやらせていく感じ。経営しているライブハウス青山月見ル君想フも、そうやって内装やイメージを中華風に変えていってるでしょ?

 

寺尾:そういう手法ですね(笑)。でも、泰山に遊ぶは、中国風メロディのロックに限界が見えて、次に行きたくなったことがあったんですよ。それで、「京劇のリズムを、真剣に学ぼう」と。

 

山本:え?!

 

寺尾:僕らがやっていたのは、いわゆる、細野晴臣さんがやっているような想像上の、中国への憧れエキゾミュージックだったんですよ。自他共にそう思ってたんですが、それじゃダメだと思ったことがあって。バックグラウンドというか、そういう強いものが欲しくなっちゃって、それで、中国伝統音楽を消化したうえでバンド音楽をやろう、となった時期がありました。

 

山本:それは大変……。

 

寺尾ブッタさん。2019年2月10日、那覇市桜坂劇場にて。
寺尾ブッタさん。2019年2月10日、那覇市桜坂劇場にて。

 

寺尾:「中国伝統音楽だったら、京劇だよね」と。京劇の楽器を北京で買い漁ったり、あと、日本人の京劇役者さんと知り合って、その人にしつこく付いてまわったり。

 

山本:プロでやってる方ですか?

 

寺尾:プロの京劇役者の方です。日本のメディアにはあまり紹介されてないですが、中国で活躍されている方。その方が帰国するタイミングで、青山月見ル君想フでワークショップをしてもらったりしました。ドラや打楽器をみんなで叩いて、京劇の音楽を紐解いてもらって。自分は自分で、東京の京劇サークルをあたりまくったんですよ。全部のサークルを下見して、体験入会をして。

 

山本:ライブハウスで働きながらですか?

 

寺尾:うん、店長でした。2005〜2006年頃です。

 

山本:本気!

 

寺尾:休みの日は全部そういうことにつぎ込んでましたね。東京にも京劇サークルは3、4個しかないんですが、気に入ったサークルに何度か通いました。当時から、『京劇―「政治の国」の俳優群像』(中公叢書)などを執筆されてる加藤徹先生(※1)を超リスペクトしてたんですが、そのサークルは、加藤先生も在籍していて。加藤先生の著書も読んでいたので、「あの加藤先生と同じサークルで京劇を学べるなんて、こんな面白いことはない〜!」と、感動してて。ただ、ちょっと仕事も忙しくて、通い詰めることはできなかった。4回ぐらい通って終わっちゃった感じですね。

 

※1 加藤徹先生のホームページはこちら http://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/ サイト内の『京劇城』は、非常に贅沢な知識の宝庫である。

 

 

山本:当時、全国的にライブハウスどこもめちゃくちゃ忙しい時代だったはず。

 

寺尾:そうですね。京劇サークルはだいたい土曜日の昼2時、3時とかに集まるんですよ。

 

山本:土曜に休むとか無理だったでしょう(笑)。

 

寺尾:そう、それで通えなくなっちゃって。京劇の本も中国から買って集めましたよ。淘宝(※2)でなんとかクレジットカードで強引に決済して。

 

※2 中国のオンラインショッピングサイト。 https://www.taobao.com 

 

寺尾:2ヶ月後ぐらいに、ずた袋みたいなものが家に届いて、「なんだこのゴミは?」と思って開けたら、京劇の本がドサっと出てきました。中国から取り寄せた楽譜や、HOWTO本。数万円使ってそういう本を集めたりもしました。ただ、バンド音楽への反映は、できなかったですね。京劇のリズムは単純じゃない。役者の動きに合わせて、役者のタイミングと演奏家のタイミングをあわせるもの。これって、割と即興的な音楽ってことなんですよ。リズムやフレーズのパターンがあって、演奏する曲によって、それを自在に使い分けていく。キメのときは、役者と演奏家お互いのテレパシーが重要で。京劇でどうしても重要な、「タンタンタタタンタン、ターン、タン!」っていうキメが、演奏家、役者ともぴったり決まると、会場が「好(ハオ)!」って讃えるじゃないですか。これ、バンドっていう形態では無理だな、と。一応、タンタンタタタンタン、というリズムを使った曲も作ったりしたんですけど、つまんなかった。

 

山本:バンドではやれないような音楽だからこそ京劇、っていうのはあるでしょうね。ポピュラー・ミュージックでは、あれだけ同じフレーズを何回もコテコテ繰り返す、リズムを繰り返す、それを組み合わせて変わっていく、っていうやり方は、しないじゃないですか。あ、でも、これってレゲエじゃないですか?

 

寺尾:あー、レゲエのラバダブとか近いかもしれないですよね。お決まりのビートで上がどんどん変わっていく。

 

山本:もし京劇音楽とバンド音楽の融合をできたとしても、それって音楽として面白くなくなるんじゃないかな?

 

寺尾:いや、それを、超越したかったんですよね。京劇の極意を掴んだ上で、やりたかったんですよ。

 

落差草原WWWW(英名:Prairie WWWW)

 

山本:今、寺尾さんは当時の興味とぜんぜん違うことを仕事でやってますよね。伝統とはまったく関係のない音楽だったり。伝統のことをやりたくなったりしません?

 

寺尾:仕事としてやるのはちょっと厳しいでしょうね。実は、青山月見ル君想フで、京劇をやろうとしたことはありますよ。昔ながらの京劇の会館って、2階席があるじゃないですか。

 

山本:そうですよね、2階に偉い人が座って。

 

寺尾:そう。そう考えると、「あれ?月見るって、実は昔、京劇の劇場だったんじゃないか……?」とか思ったりして(笑)。京劇関係の先生方に、「ここで京劇の公演をできないか」って相談したことありますね。いろんな方に相談して知ったのは、一級の役者を呼ぶとすれば何百万円かかるらしいということ。チケット売って回収できるレベルじゃない。

 

山本:京劇団を呼んで、青山月見ル君想フで公演打つ、ってことを考えてたんですか?

 

寺尾:京劇団を呼んで、僕がプロモーターになる、っていう。

 

山本:日本初の京劇プロモーター。

 

寺尾:しかもライブハウスで。10年前ぐらいに一回考えましたね。沖縄だったら、りんけんバンドの劇場、カラハーイあるじゃないですか。あそこに行ったときに、「あれ?ここって京劇できる?」とか考えちゃいましたよ。

 

山本:そういう目でいつもハコを見てるんですね。

 

寺尾:ライブハウスを楽しむ、ぐらいのカジュアルさで、京劇がヌッ、て入ってきたら、面白いな、って。

 

 

バックパッカーをやめて、中国へ。911を北京で知る

 

山本:私が最初に青山月見ル君想フへ行ったときの第一印象は「なんでこんなに内装が中華なんだろう」と。寺尾さんが月見ルで働く前から、内装は中華っぽい?

 

寺尾:僕が働く前から、手すりは赤色でしたね。

 

山本:(笑)。

 

寺尾:柱に龍を巻きつかせてから決定的に中華になりましたね。

 

山本:それは誰が?

 

寺尾:自分の企画したイベントで作ってもらいました。大学の同級生の女の子が、東京で自分たちリノベーションしたビルで、共同生活しながらゲストハウスを運営しています。僕は政治学科だったんですけど、彼女は建築学科でした。そのゲストハウスのチームと、青山月見ル君想フで何かイベントやろう、という話になったんです。そのチームには左官職人さんもいて、じゃあ、ライブ・ペインティングならぬ、「ライブ・左官やろうや」と。ライブしながら、柱にコテでしゃーしゃーやって龍を作ってもらいました。そのときに龍が出来上がって、ぐんと中華感がアップしましたね。

 

山本:もう取り外せない?

 

寺尾:「あれがあると音が悪い」とか、スタッフから難癖つけられたりしてますね。「早く外してほしい」って(笑)。「まあ、じきに外すから」ってスタッフをなだめながら、今に至る、っていう。

 

 

青山月見ル君想フ内に"ライブ・左官"でつくった龍。(提供:寺尾ブッタ)
青山月見ル君想フ内に"ライブ・左官"でつくった龍。(提供:寺尾ブッタ)
この龍をつくったゲストハウスのスタッフは、寺尾さんが北京留学を共にした友人である。(提供:寺尾ブッタ)
この龍をつくったゲストハウスのスタッフは、寺尾さんが北京留学を共にした友人である。(提供:寺尾ブッタ)

 

 

山本:寺尾さん、大学では政治学科だったんですね。中国文学とかを専攻していたのかと思い込んでました。

 

寺尾:早稲田大学在学中に学内の公募に応募して、北京大学に交換留学してから、中国にかぶれちゃったんですよ。それまでは、バカなバックパッカーだったんです。タイに何度も行って、「全部やすいな〜最高!」って。「中国は近すぎるからエキゾチックじゃない、冒険してない」とか思ってました。「インド行った奴が強い」みたいなの、なんかあったじゃないですか。

 

山本:寺尾さん私より3つ年上ですね。確かにその世代で流行っていたバックパッカーの感じ、わかります。

 

寺尾:当時、バックパッカーの本がやたら出版されてたんですよ。インド行ったら誰でも本書けるんじゃないかというぐらいに手当たり次第。内容はスッゲー浅かった。乱発されてたバックパッカー向けの本を、買いまくってましたね(笑)。

 

山本:買ってたんですか!

 

寺尾:冒険にはまっちゃって、インドにも行って。そうやってるうちに、つまんなくなったんです。客引きと交渉して「これだけ安くしてやったぜ」みたいなの、「すっげーつまんねーな。毎日移動のことばっかり考えて、何もしてないじゃん」と。これが大学1年か2年の頃です。その後、大学3年のときに北京に留学して、中国に心を全部持って行かれました。

 

山本:北京大学への留学は3ヶ月でしたっけ?

 

寺尾:いや、たった1ヶ月です(笑)。

 

山本:たった1ヶ月で全部持って行かれて!

 

寺尾:そうそう、もうスポンジみたいだったんで、どんな影響も受けました。

 

山本:当時は21歳ぐらいですよね。

 

寺尾:そう。2001年9月11日の同時多発テロを、北京で見ました。

 

山本:ニューヨークで起こったテロを中国で見るって、凄い経験。

 

寺尾:北京大学の授業で、先生が「今日はこんなことがあった」って新聞見せてくれて、教室はざわざわして。

 

山本:そうか、その頃だと、まだインターネット見ないですね。

 

寺尾:そう。先生が新聞出して見せてくれて、「なにそれ!」って。もっと詳しく知りたいし、映像も見たいじゃないですか。中国のテレビでは多少報道されてたんですけど、情報足りないなと思って街に出たら、VCDがその日のうちに出てました。

 

山本:えー!ニュースの映像集めた?

 

寺尾:そう、映像いっぱい集めたVCDが、中关村っていう、北京大学の近くにある秋葉原みたいなところで売ってました。中关村はパソコンの部品やDVDを仕入れに行く場所でした。今はシリコンバレーみたいになってます。歩いてたら、子連れの人が「こっちこっち」って手招きしてくるんです(※3)。手招きに応じて路地裏に入ったら、VCDをずらっと見せてくれる。そういうところで911のニュース映像VCDを買って見ましたね。ほとんど似たようなシーンだったんですが。

 

※3 VCDとは映像を集めたデータCD。海賊版の多くが当時VCDで売られていた。公に売ることができないため、CD・DVD店の奥の隠し部屋や隠れた場所で販売されることが多かった。(筆者も2011年に上海で似たような体験をした。)

 

当時神戸と天津を結んでいた船「燕京号」に、北京留学のため乗船した際の写真(提供:寺尾ブッタ)
当時神戸と天津を結んでいた船「燕京号」に、北京留学のため乗船した際の写真(提供:寺尾ブッタ)
燕京号に乗り込む寺尾ブッタさん(提供:寺尾ブッタ)
燕京号に乗り込む寺尾ブッタさん(提供:寺尾ブッタ)

 

夢は万里の長城でフェス

 

山本:北京留学中に、いったい何が起こって、そんなに中国にはまったんですか?

 

寺尾:まあ、音楽は聴いてましたけど、音楽には、そんなにはまらなかった。王菲(※4)とか、崔健(※5)とかのカセットテープを買って宿舎で聴いたけど、なんかつまんないなと。でも、オルタナティブなものが好きだったので、北京の町並みはオルタナ感があって、くすぐられましたね。

 

※4 フェイ・ウォン。歌手、女優。

※5 ツイ・ジェン。中国ロック黎明期に活動していたミュージシャン。

 

山本:オルタナ感?

 

寺尾:これから来るぞ、っていう感じかな。胡同(※6)の時代感とか。

 

※6 北京市内、旧城内にある古い路地。

 

 

山本:古くてかっこいい、というような?

 

寺尾:僕は、京都も好きなんですよ。北京は似た感じがあって。歴史も好きだし。

 

山本:中国史ですか?

 

寺尾:歴史は全部好きです。中国の歴史ももちろん。歴史を知った上で街を見ると、「あれ、この道の名前って……??この名前って、もしかしてあの時代のあの人の!?」みたいな、発見があるんです。京都を好きな理由は、通りの名前や地名と、歴史が結びつくから。中国もそうで、「この道って、1000年前の、あのときの……?」って、驚いてしまう通りや地名がたくさんある。古さも桁が違うんです。あの頃の中国の地方は、建て直されたり町を作り変えられる前でした。観光地も、整備されずに放置されてたんですよ。国内のツーリズムがやっと始まった頃です。古いお寺へ行ったら、埃被りまくってるし整備されていなくて、とても良かった。今は、そういった場所も観光資源として開発されちゃった。当時、万里の長城もすごく面白かったんですよ。

 

山本:2001年の万里の長城。

 

寺尾:そうです。さらに、整備されてない遠いほうの長城、「野長城」にも行きました。僕の夢は、長城でフェスやることなんです。

 

寺尾ブッタさん、野長城にて。(提供:寺尾ブッタ)
寺尾ブッタさん、野長城にて。(提供:寺尾ブッタ)

 

山本:留学から帰った後の生活はどうでした?

 

寺尾:北京から帰ってからは、もう、成績全部優秀で二重丸(笑)!帰ってきてからは、中国語に中国政治、中国関係の授業を全部取りました。全部優秀でしたね。たぶん、今の山本さんは、当時の留学終わった後の僕の状態に近い。

 

山本:そうだと思います(笑)。

 

寺尾:勉強だけじゃなく、TSUTAYAにある中国映画を全部借りて、全部見ましたね。「このTSUTAYAはもう漁りきった、次のTSUTAYA行こう」って、TSUTAYA巡って。

 

山本:すごい。帰国後は、中国ロックに関してはどうでした?

 

寺尾:中国の音楽には、帰ってからもあまりはまらなかったんです。ひとつ、当時知ったバンドで、HANG ON THE BOXっていうガールズパンクバンドがいたんですよ。留学してた時、現地の日本語フリーペーパーに彼女たちのことが紹介されてました。ライブを見に行ってみたら、「これから日本ツアーへ行く壮行会ライブ」みたいな会だったんです。日本でロリータ18号と一緒にツアーする予定だったみたいです。

 

 

 

寺尾:ライブを見たら、演奏は素人、学園祭みたいなんだけれど、パンクの勢いはあって。「こういうバンドって、もう日本にいないな〜」としみじみ思いました。そのバンド、当時Newsweekの表紙にもなったことで話題だったんです。Newsweekの表紙を飾った中国人では、毛沢東の次が、そのバンド、って言われてて(※6)。

 

山本:それはすごい(笑)。

 

寺尾:そう、「中国もこんなに変わりました」という特集内容だったのかな。鼻ピアスとかもしているパンク少女たちだったので、中国の外に対してのインパクトが強かった。僕は、ライブの後、Tシャツにサインしてもらったりもしたんですよ。ベーシストは内モンゴル出身らしく、名前書いてもらったけど文字が全然読めなかった。その後、彼女はバンドを抜けるんですが、実は、Hanggai(※7)のメンバーの妹だったそうなんです。4、5年前にそれを知りました。

 

山本:ええ!

 

※6 正確には、毛沢東が登場した後に、政治家として周恩来や鄧小平も表紙になったことがある。

 

※7 杭盖(ハンガイ)。モンゴル族のメンバーで構成されたバンド。拠点は北京。FUJI ROCK FESTIVALや橋の下世界音楽祭に何度も出演している。

 

HANG ON THE BOXが表紙を飾ったNewsweek。1999年頃発行と思われる。
HANG ON THE BOXが表紙を飾ったNewsweek。1999年頃発行と思われる。

 

寺尾:さらに、ストーリーがあって。数年前、ある中国のシンガーソングライターのライブを僕が東京で企画しました。そのときに、アーティストから招待されて見にきた人が、中国国営企業の東京事務所で働いている方で、日本人。話したら、だんだん昔の北京の話になって。「いつ頃北京にいました?」と聞くと、どうやら、僕の留学の時代とかぶってるんです。その方は当時中国で働いていらっしゃった。HANG ON THE BOXの話をその方にしてみたら、「俺マネージャーだった」って。びっくりしました。壮行会ライブについて聞いたら、「あ、それ俺が企画した」って!ちなみに、僕は留学終わって帰国するとき、飛行機が高いので、天津から神戸に行く船に乗ったんです。同じ船に、これから日本ツアーに行くHANG ON THE BOXがたまたま乗ってたんですよ。

 

山本:なんでそんなに綺麗にハマるんですか(笑)。

 

寺尾:一緒の船だったんですけど、僕は1ヶ月の留学で遊び疲れて、2泊3日の船の中ずっと寝てました。HANG ON THE BOXがいるのはわかってたんですよ、ひまわりの種食ってるなあ、って見てて。けど、もう気力がないから話しかけたりしなかった。そのマネージャーだった方は、「俺もその船乗ってたよ」って!

後日談で聞いたんですけど、HANG ON THE BOXは筑紫哲也のNEWS23に出てスタジオライブする予定だったらしいです。それが、911があったから全部特別番組になっちゃって、出演がキャンセルになっちゃった。それで、日本での売り込み計画が崩れちゃったみたいですね。ツアーの動員も、NEWS23からの流れを見込んでたらしいんですけど、思うようにいかなかった、と。

 

山本:泣ける話だ。

 

寺尾:泣けます。マネージャーだった方とは、固い握手しましたね。その頃の北京滞在って、日本人同士、「時代を共有したねえ」みたいな、言葉にならない繋がりみたいなものがあって。あの当時、激動の中国だったね、と。

 

紫禁城で昼寝する寺尾ブッタさん※左から2人目(提供:寺尾ブッタ)
紫禁城で昼寝する寺尾ブッタさん※左から2人目(提供:寺尾ブッタ)

 

 

目標は、現代の李香蘭を育てること?

 

山本:寺尾さん、今後もずっとライブのプロモーターを続けていくんですか?最近超忙しそうですが、しんどい?楽しい?

 

寺尾:楽しいですよ。今の目標は、「組織で解決」。台湾人や中国人の後輩を育てて、彼らがツアーを担当してもらえるように考えています。自分がドタバタ行ったり来たりするのは、そろそろやめたいとは思ってます。仕事としては、そういう風にスライドしていくのが、今最大の関心ごと。

 

山本:それ、もう2年ぐらい前から言ってません?

 

寺尾:(笑)。そうでしたっけ?

 

山本:うん、言ってると思います。

 

寺尾:今度は、ガチです。台湾人と中国人、東京で一人ずつ雇ったんですよ。あと、もうひとつの目標としては、アーティストを発掘したいです。

 

山本:それって、今までやってなかった?

 

寺尾:これまでは、既に他のレーベルからリリースしていたり、マネジメントがついているアーティストと一緒に仕事をしています。そういう人たちの台湾・中国ツアーを担当することはやっているんですが、そうでなくて、日本で、きちんと発掘して育てていく、っていうことをやりたいです。デビューまで一緒にやって、デビューしてからも、アジア各地で展開していって、っていう、サクセスストーリーを作りたいんです。自分で見つけて、育てて。そのアーティストがアジア全体でも通用する、っていう証明をしたい。

 

山本:なるほど。日本のマーケットだけで売るんじゃなくて、アジア全体で売るアーティストを発掘して育てるっていうことか。

 

寺尾:そうです。日本でももちろん売りたいし、アジア全体でも売りたい。

 

山本:日本からリリースされたアーティストって、基本的に日本の中で育てられてて、日本に一番フィットするようになってるじゃないですか。テレサ・テンみたいに、アジア多くの地域で愛されるアーティストっていうのは、なかなかいない。

 

寺尾:李香蘭とかも、いいですよね。

 

山本:現代の李香蘭。それができたら、確かに素晴らしい。平成20年代以降に生まれた人とかで、そういう、国境越えていくアーティストが出てくるんじゃないですかね。

 

寺尾:平成20年代生まれか……。まだまだ先ですね。

 

山本:あと5年ぐらいですよ。今子ども時代を過ごしている人たちって、日本がどうこうとか思わないだろうし、簡単に境界を越えるだろうし、アジアを広い視野で見ることができる気がする。

 

寺尾:日本人じゃなくてもいいかもしれないですしね。

 

山本:うん。いくつかの言語を話せる、とかね。

 

 


2019年2月9日、沖縄県那覇市内にて対談。

構成、写真(提供元、転載元の表示がないもの)、注釈テキスト 山本佳奈子

Ⓒ WAVE UNIZON, Kanako Yamamoto 2019

 

 

寺尾ブッタ(てらお・ぶった) プロフィール

BIG ROMANTIC ENTERTAINMENT / 大浪漫娛樂集團代表(青山/台北月見ル君想フ、浪漫的工作室、BIG ROMANTIC RECORDS)

旅好きが高じて2001年北京短期留学、2005年頃青山月見ル君想フ入社、2014年に独立後、台北月見ル君想フ出店。以来東京と台北を中心に各種イベントプロデュースなどを手がけている。現在BIG ROMANTIC ENTERTAINMENTとしてライブハウス、レーベル、ツアーマネジメント等を展開中。

 

 

山本佳奈子(やまもと・かなこ) プロフィール

ライター。アジアのメインストリームではない音楽や、社会と強く関わりをもつ表現に焦点をあて、ウェブzine「Offshore」にてインタビュー記事を執筆。不定期に発行している紙のzineでは、エッセイを書く。尼崎市出身。2015年から那覇市を拠点とし、沖縄アーツカウンシルにて2年半勤務。沖縄県と福建省の交流事業を活用し、2017年9月から約10ヶ月間、福州市にて語学留学。